解 説
安全安心社会に貢献する技術者教育*
蓬原弘一**
*平成17年6月15日原稿受付
**長岡技術科学大学, 〒940-2188 長岡市上富岡町1603-1
我が国の大学では,安全工学知識に関する教育についてはこれまで殆ど実施してきていない状況にある.欧州では,大学教育に一部取り込んでいる所もあり,さらに社会制度として安全問題関連にマイスター制が存在することもあって,社会全般にわたり安全工学知識は日本に比較して高いレベルで浸透していると考えられる.これは,各種国際安全規格が欧州から(大量に)提案され,制定されてきている事実からも知れる.また,米国は,MIL-STD-882C(システム安全プログラム要求事項):19931)ですでにシステム安全(注)に関する作業管理責任および技術承認の資格者を定めていることもあって,安全工学知識の作業現場への適用は(例えば自動車産業など)欧州よりむしろ厳しい状況にあると聞く.
この十数年,欧米が作業現場への安全工学知識の適用を大幅に進展させているのに比較して,日本におけるその適用は相当に遅れており,かつ,その実施状況も不充分な状況にある.この原因の一つに,大学教育のカリキュラムの中に安全工学知識を殆ど含めていないことが挙げられる.このため,企業内の指導者層および行政・学校教育者に限らず,毎年大量に送り出される学生さえも,安全工学知識に基づく製品やシステムでなければいまや世界に通用しない,ということの重要性に気づいていない状況にあると考えられる.
改めて,言うまでもないことと思われるが,ここで安全工学知識に関する教育とは,従来から日本で盛んに行われてきている“危害回避のための人間の作業教育”ではない.危険を伴う作業を教育によって強いる行為は,場合によっては“やらせ行為”と解釈されかねない.
従来から安全上の事故はともすれば,システムの設計上の誤りをオペレータやメンテナンスの作業誤りとしてその原因を個人に帰着させる場合が際立って多かった.このため,安全作業のための教育がかって盛んに行われて,安全教育と言えば安全確保の作業教育を意味してきた.しかし,作業者が誤りを冒してしまうことがない,あるいは,たとえ誤りを冒しても災害に至らないようなシステム設計が近年常識とされ,国際安全規格もこのための技術教育を求めている.事故の原因をオペレータの不注意に帰着させるような環境では,国際安全規格で規定するような機械またはシステムの設計基準は生まれない.
表1は現状で国際的に要請される安全工学への期待または要求事項の例を示す.同表の一部を簡単に説明すると以下のとおりである.
“レジスタンス”2)とは,たとえ障害が生じても少なくとも安全性だけは確保されるようなシステム設計を意味する.“実学性”とは,現実に適用可能な工学,すなわち実学としての工学の要請である.安全システムには,次項目の“公開性”で示すように,安全確保の説明責任が伴う.余りにも複雑なシステムは安全性の立証が困難で,立証に時間と費用がかかる.このため,“標準化”は国際安全規格で「モジュール化」3)とも呼ばれて最も重要視される.具体的には,立証済みモジュールの組み合わせでシステムが構成されれば,システムの安全性はきわめて判り易くなる.“実学性”も現実にはこの観点で重要視され,標準化は安全工学の主要部をなすと考えられる.“思考形式”とは安全性証明の過程を意味し,安全立証では「例えば危険源の存在を分析するための障害樹分析(FTA)にとどまらず,安全確保方策類とその組み合わせ分析を論理的に示す」ことの要請を意味する(表1ではこの作業をSSAで示す).
(注) システム安全工学:危険源(システムに潜在する危険の源:例えばエネルギー,危険物質,刃物,熱源,放射線)を同定しかつ除去する,またはリスクを低減するために科学的および工学的原理,基準並びに技術を適用する上で,特別な専門知識および熟練技術を必要とする工学規律(MIL-STD-882C:1993).
2.1 講義内容
長岡技術科学大学ではすでに2001年9月より「機械安全工学講座」を発足させて,大学院修士課程で安全工学の講義を開始してきている.この講座では,現在急速に世界的に国際(ISOおよびIEC)安全規格として集約され,さらに日本工業規格(JIS)として規定されてきている機械システムに関する安全確保の考え方とそれに基づく機械の設計方法を工学として講義してきている4).
機械安全工学といえば,従来日本では機械単体を対象にして安全確保の工学のように解釈されがちである.国際規格では,機械単体の他にその制御装置や通信装置を含めてシステム全体を工学対象とする.したがって,本講座では従来の機械工学の他に,材料工学,人間工学,電気工学,制御工学,通信工学,ソフトウェア工学,システム工学のような多様な工学について安全の観点から講義する.欧州における機械安全工学のこの考え方は,米国では“システム安全工学”に対応すると考えられる.
国際安全規格はコンピュータ技術を含めて多様な工学分野を自由に駆使して制定される.また,さらに広範な産業・技術分野に拡張しながら安全確保の方法を定めつつあり,明らかにマネージメントおよびそのための組織を含む.“安心”を安全システムの実現の結果とするならば,まさに国際安全規格はその方向にあるといっても過言ではない.
長岡技術科学大学では,安全工学が実践的側面を重要視していることから,多少なりともすでに安全問題に関する経験を有する社会人を対象として,2002年より安全工学の専門的講義を行ってきており,講義の内容は概略上述のとおりであるが,とくに2004年から以下については教科書を利用して講義を行っている(ただし,ソフトウエアと通信技術の教科書は準備中).
◆ 安全基礎工学 (安全システムを論理的に証明するための基礎講座)
◆ 国際安全規格体系とその考え方(機械安全規格を人間/機械安全作業シテムとして解説する)
◆ 安全コンポーネントの構成原理とその適用(機械的,電気的,油空圧利用による安全確保原則の適用方法を講義する)
◆ 電気安全構築技術(電気安全に関するたくさんの要求事項を現場適用例と一緒に学習する)
◆ 制御に基づく安全確保技術(電子技術及びコンピュータ利用技術を含めて制御の安全を学習する)
◆ 機械の人間工学設計(人間工学の観点から機械の設計方法を学習する)
◆ ソフトウエアの安全性と安全通信技術(ソフトウエアおよび通信伝送の国際安全規格を説明する)
2.2 教科書の開発と学習プロセス
図1に教科書開発のプロセスを示す.国際安全規格は安全に関する一般規格(A,B規格)と個別産業分野または個別機械設備に関する規格(C規格)で構成される5).これらの規格を構成する安全確保の基礎的原理を著者および協力者の経験と一部科学的考察に基づいて定めて,その結果を安全性の論理的証明方法およびそのシステムへの適用方法として例示する.ここで定めた安全確保の原則とその適用の実用性は安全技術応用研究会(東京都品川区東大井5-4-19)の協力の下に,現場データを含めて,教科書(安全工学関連)として作成される.また,同研究会は応用事例(現場適用関連)としての資料を作成する.図1の右欄の教科書はその例である.同欄でその他の安全システム構築総覧6)はすべての教科書の実施例の基礎をなす.図中,“A,B,C級”は一般規格の各種システムへの適用能力区別の潜在を意味する.
図2に長岡技術科学大学における教育学習システムの全体構成例を示す.講義項目は年間計画で少し変わる部分もあるが,大略図2に基づく.社会人を学生とするので,システムは集中講義と,e-learning,セミナーおよび演習・現場実習を含めた在宅学習から成る.同図には前述の教科書類の他に必要な工学分野での安全工学例が示してある.在宅学習は修士論文の作成を含む.修士論文のテーマは学生の職場環境から選択される場合が多いので,指導教授の広範な技術指導が必要となる.
図3にIEC615083)で示される安全確保システム構築の手順例を示す.安全システムに限らず,すべてのシステムにはシステム要求事項仕様書が不可欠である.システムが安全に関わる場合は,とくに,できる限り詳細で厳密な要求事項仕様書を作成する必要がある.理由は,システム要求事項仕様書に基づいて安全性要求事項仕様書を作成するとともに,システムの安全性に対する妥当性確認計画書を作成しなければならないことによる.したがって,システム要求事項仕様書のないシステムでは,安全性の妥当性確認を実施できない.この点で図3における安全性要求仕様書作成までの手続きは,きわめて重要な作業となる.また,仕様書はシステム完成後の証拠文書として修正と保管を不可欠とする.
表2に過去に起こった比較的著名な安全上の事件例を示す.事件例のいずれも国際安全規格に基づいて図3に示す危険源/リスク分析が実施されていれば,潜在する危険源として挙げられて,当然システムにその分析結果が文書として残されるはず,という意味で,同表では“仕様上の誤り”として示してある.ただし,現実には表2の事件の中には,システムの立案・設計段階でそれを想定され得たか否か,必ずしも明言できない例があるかも知れない.しかし,表2の結果は,今後同様の,または類似のシステムを新しく構築する場合,その検討結果が安全性要求事項に含まれるべきことは事実である.なお,仕様上の誤りは上述の規格では系統的障害(systematic
failure)の一つとして重要視される.また,表2における仕様上の誤りは,安全上での“手抜き”として解釈すべき例をかなり含む4).国際安全規格は標準化に基づくコスト低減を推奨する.油断すると,手抜きによるコスト低減を生じかねない.
序文で日本における安全教育の現状と安全工学の特徴を述べ,次に長岡技術科学大学における教育システムと教育内容を説明した.同大学の安全工学教育の特徴は,教育内容が工学原則に基づくこと,および現場適用への実学性を重要視する点であると考えられる.最後に,安全工学適用の初期的検討例として災害事例を用いてそれを説明した.なお,図表の詳細説明は紙数の都合で省略した.
1) MIL-STD-882C:System safety program requirement (1993)
2) ISO13849-1:1999 Safety of machinery Safety-related
parts of control systems, Part 1:General principles for
design(1999)
3) IEC61508:1998 Functional safety of electrical/electronic/programmable
electronic safety-related systems(1998)
4) 蓬原弘一,機械安全工学講義事始,日本信頼性学会誌,Vol.26,No.6(2004),pp549-557
5) ISO 12100-1:2003 Safety of machinery Basic concepts
and general principles for design, Part 1:Basic
terminology, methodology(2003)
6)(国際安全規格対応)安全システム総覧,2001年6月5日,安全技術応用研究会
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