随 筆

 

ADS(Aqua Drive System):新・水圧技術」への道のり*

 

宮川 新平**

 

平成1979日原稿受付

**KYB株式会社基盤技術研究所,〒228-0828  神奈川県相模原市麻溝台 1-12-1

 

 1986月末筆者は当時西ドイツ国アーヘン工科大学での研究を終え,帰国の途に付く挨拶の為家族が世話になった家主宅を訪問していた.家主宅のテレビを見ながら2年間弱の思い出を語っていたその時にスペースシャトルの大事故がテレビに映し出された.そして帰国半年後の6月ソビエト連邦のチェルノブイリでの原子力発電所でのやはり大事故が発生した.北ドイツへの放射能の飛散を伝えた.このような大惨事が連続して発生した年であった.やや北に位置するアーヘンもこの影響を少なからず受けた,と聞いた.また,最近のニュースで留学当時イギリスにある期間滞在した人間はBSE汚染関連で献血してはいけないことを知らされた.我々家族もその集団に属してしまっている.これからの世の中はどのような惨事が起こるかわからない.複雑で予測の困難な時代がやって来るのだろうか.

すでにこの時,帰国後の自分の進むべき方向を模索していた.所属会社の油圧機器事業での撤退はあっても「機械駆動と制御の為の油圧の応用技術の続行」か「他の技術分野の模索」かの選択であった.当時,ある調査機関会社と「今後の油圧技術」について議論した.その時の大方の方向性はつぎの様だった.「技術としては成熟する.その応用は主に移動機械に搭載されることになる.油圧機器は母機会社が大方製造することになるだろう.定置機械は電気駆動になっていく」との予測であった.今から20年前の話である.これが当っているかどうかはプロセスであるのでなんともいえない.「今後の水圧駆動の可能性」についての議論はしていない.選択は自分に迫られた.ただし,ドイツ滞在でのあらゆる面での大きなインパクトの中で環境意識に対する認識の高さとそれが生活の中に密着していることの印象が強力であった.家主の長男がノルトライン・ウェストファーレン州の環境関連の担当官であった.ルール地方の炭鉱跡地の修復について,ビオトープ技術を取り入れた自然の姿に戻す構想の基にプロジェクトを企画していた.彼は後に日本の八幡地区を訪れている.その他,ゴミ処理を含む廃棄物処理や焼却炉の今後のトータルシステムなど,これからの環境対策に多くの知見について,夕食でドイツワインを楽しみながら語ってくれた.彼は誕生日が同じという至って単純な理由から意気投合し,今も付き合いが続いている.2001年ニューヨークとワシントンで起きた大事故が911日の日であって,何とこの日が彼と私の誕生日なのだ.これも互いの存在を忘れない理由である.また,今後の世界状況の方向性など筆者の不自由なドイツ語で話した.この付き合いが自分を何らかの環境技術に携わるきっかけを作った.環境と関連した新技術に自分を方向付けた大きなきっかけであった.

 帰国した筆者は開発テーマ探索の毎日であった.筆者のこれまでの経験は,「油圧駆動とその制御」であることから,その分野での留学とならざるを得ない.帰国後直接は会社に貢献できない.しかし,専門分野はそうであっても,海外での経験は必ずや今後のグローバル化に役立つはずであるとの強い思いがある.これからはアメリカの時代であり,今更ドイツへ何しに行くのか,と其の目的を上司から何度も問われた.自分の頭では,詳しくは理解の外であったが,バルト海からエーゲ海までは当時のドイツ貨幣のマルクが大きな役割を果たしている,と聞いていた.いずれ欧州の地理的中央にあるドイツは将来重要な位置を占めることになる.今ではユーロ圏の経済的中央に位置し,自分なりの当時の予測はほぼ当っていた.こちらでの人脈が帰国後大きく役立ってくる.お陰で水圧に関しての情報を得るのに気軽に欧米を訪問することができた.この人脈は後年水圧サミットにオブザーバーとして参加することに繋がる.会社には留学制度が無かった.ましてや撤退した事業分野である.従って,会社はすぐには「Yes」といわない.留学の条件は外部からの資金援助を得ることであった.希望の留学先は,油空圧技術のメッカである西ドイツ(当時)のアーヘン工科大学.結果的にはアレクサンダ・フォン・フンボルト財団(ドイツ国学術留学制度)へ応募するが,一度目は不合格,二度目に不合格であれば退職覚悟である.運良く願いが叶い,恥をかく憂き目は避けられた.しかし,留学した直後に社内留学制度が検討され始め,その翌年に制度の内容チェックの依頼がアーヘン滞在中の自分に送られてきた.翌年から社内留学制度が確立され,若手の海外留学が可能となったことは筆者にとってこの上ない喜びである.また,更にその翌年にこの制度を利用して研究所からイギリスのある大学に留学した人が,帰国後責任ある地位に就き活躍している.筆者にとって嬉しい一つである.留学中に中央研究所から総合研究所に組織が変えられ,自分の席には他の人が座り,雰囲気がまるで変わっていた.浦島太郎である.上司も事務方の人そして研究手続きなどすべてといってよい程の変化の中に帰国した.滞在中に上司が私的旅行で近くのパリへ立ち寄られるということでお世話させて頂いたが,上司は筆者の留学期間の短縮について夕食をしながら告げたが,すでに予定を担当教授と打ち合わせ,研究途中の帰国は困難であると打ち明けた.夜中まで話し合いは続いた.こんな背景での留学であったから,帰国後が大変であることの覚悟はできていた.まったくの新しいテーマ探索とその企画は,初めての経験である.

過去の研究プロセスから「メーカの研究とは?の自問自答」を常に心した.この作業は辛くも楽しかった.テーマ選択の基本的柱を以下の三点に絞り探索活動を推進した積りである.@市場と技術から打って出る分野(市場),A会社が持つ時間と予算感覚(投資),B事業化製品の販売コストの適社度(売り上げ規模).某有名シンクタンク会社が主催したマネジメントセミナー「新規事業と組織・運営」に参加することになる.その骨子は新技術を上層部に理解させ,事業に最適な組織の構築,そしてそこでのマネジメントをいかにすべきかが主体で,大企業の企画部長がこぞって参加していた.当時どの大企業も先輩諸氏がこれまでに経験したことの無い分野(IT技術などと呼ばれる少し前の頃)の事業化について,市場の最先端で収集してきた最新の情報をトップに対してどのようにして翻訳して経営の糧にするか,と言うことに腐心していた.今でこそ「IT,ナノテク,バイオなど」の言葉は当り前のキーワードであるが,いかにして事業の中に取り込む話に帰着させることができるか,一体それが将来自社にどのような影響を及ぼすか,当時はただ不安に駆られるだけで,対策案に神経を尖らせていた.思い起こすにマイクロコンピュータが世に出され(筆者の記憶ではNECが出したTK-80の頃),多くの企業が遅れまいと,どこもかしこもメカトロの名において手をだした.しかし,いずれその本質が理解されると,多くの企業が一斉に其の分野から手を引き,いつの間にか「メカトロ」などの言葉は陳腐化していった.「ファジー」もその一つと思われる.しかし,この頃企画関連の責任者はトップに対する新技術の翻訳に苦労していた.世の中の技術革新の進歩が不連続にステップ・アップすることの認識が当たり前と捉える現在ではこの様な現象は少ない.当時,勉強会の参加に一人当たり何百万の費用を拠出し,一社から複数の担当者が派遣されていた現実を見るにどの企業も真剣そのものであった.筆者が所属していた会社においては,これまでに企画関連でこの様な多額を払って参加したことが無い,と一蹴された.留学直後で「企画」という活動がいかに重要であるかを現実に見てきた筆者にとっては新鮮な活動内容であると強く心に受け止め,上司を説得,2名で参加することができた.新しいテーマに着眼し,これを事業という具体的成果に結び付けるプロセスの検討は,今でこそ「イノベーションの真髄」と理解されるが,当時は企画という捉えどころ無い作業については,多くの企業は半信半疑で,任命された担当者を困惑させた.この参加は後々「新・水圧技術」の立ち上げ,事業化プロセスに役立てることができた.ここで学んだことは,「やりたいこと,知っていること」と「できること」は異なることであって,又,別の能力「実行力」が必要である.理屈でわかっていても,こと実際に直面すると周りが見えにくくなる.常に,自分を取り巻く環境と自分の位置を冷静に眺める余裕が重要である.絶対的原点と自分の位置を意識すること,相対的発想は,出て来た結果に独創性と競争力に欠けるということであった.

ここでのテーマ探索の自分に対する課題は前述した「メーカでの研究とは何か」,つまり「研究成果

を世に出し,社会にそして会社に貢献できるテーマの探索とその事業化」であった.筆者が長年にわたり,行ってきた研究テーマは製品部に在籍中に製品化した製品のクレーム対策からであった.筆者が研究所に移籍した後,設計部門の仲間がその成果を商品に生かして世に出したが,経営上の問題でその事業部門は閉鎖された.筆者としては論文にすることはできたが,現実的な成果を実感することは出来なかった.会社の経営上の決定で致し方の無いことではあった.しかし,当時は若気の至りで論文を書くことに力を注ぎ,「企業の研究とは何か」,まで意識が十分届いていなかった.また,当時,世の中の大企業での外部評価の一つに,権威ある場所での論文発表の実績を多く持つことがあり,研究所にとって重要な仕事でもあった.そういう時代の要請でもあったことも事実である.つぎなるステップでは[新技術とその事業化]の実現を強烈に意識した.当時,世の中の企業では中央研究所から総合研究所にその名を変えて研究成果を事業の種にすべき方策とその実現に向けて腐心していた.筆者は過去の研究所の実績を調べてみたが,「飯の種」に到達したテーマは千に三つであった.アイデアは個人の発想,といわれる.それを事業にすることができるのは,その成果を首尾良く組織に繋げることができた時である.

研究所と事業部の関係は,生まれた子供とそれを育てる親の関係に酷似している.産みの親と育ての親の関係である.子に対する育ての親の早い理解が必要と考えても事業部門は海の物とも山の物とも分からないリスクのある子を受け取ることに消極的となる.一方有る程度先が見えて将来性が見えるところまで成長した子を事業部に渡すと,今度は自己主張が強くて親のいうこと聞かない.もう少し素直になって事業部のいうことを聞かせようとすると,その結果,その子は個性を失ってどこにでも居る普通の子供になってしまう.折角,魅力ある子供として渡してもこの様な状況に陥ってしまう.そこで研究所で育てた子を早いうちに相談を持ち掛け,早いうちに事業部に送り出すと,事業部の多くの人に接触しているうちに,やがては個性,独創性を失い,これまた意味を持たない里子に出したことになる.こんな観点から研究所から成長して,個性ある製品として事業部に出て行った後を調べてみると,多くの場合,人間関係の複雑性も含めて頓挫してしまうことが多いのである.

世の中に公表された成功例が書店の棚を埋め尽くし,権威ある専門家は自説を証明するためにこれらの成果で論理の正当性を強調している.筆者もこれらの書物を不安の中で自分のやり方を確認しようと読みふけった.いつしか自分の専門書よりも多くなった.成功例から見たその論理はあくまで必要条件であって,十分条件ではない.わかっていても,今困っている局面を何とかクリアしたいとの一心で読んでみたが,時間だけが空しく過ぎていった.産みの親と育ての親の関係は,理屈より「好き,嫌い」などの好みの問題が立ちはだかる.これが思いの他現実的な課題となる.所謂,「人間ドラマ」がここに存在し,成功のための重要な要素となる.この問題を単純にマネジメントとしてのみ捉えてはいけない.光明の一点を探す妙案は結果的にはないのである.公表されている成功例は参考になるが役には立たない.近年「MOT」,「イノベーション」の書物が書店の棚を占有している.「論理で計画し,情で実行する」という言葉があるが,机上中心の手法は現場から離れ,理論でびっしりと埋められている.上述したように新技術開発とそれを世に送り出す行為は「人間ドラマ」である.ADS(新・水圧技術)の開発と市場導入までの一連の活動は,筆者にはそう思えてならない.最近「イノベーション」を「人間ドラマ」と関連付けて記述した書物が出版され,かなりの納得感で読んだ.それは筆者が考えていたこれまでの成功例を「人間ドラマ」の側面から考察している.

さて,話が大分拡大してしまった.以上の様なプロセスを経て,いつしか「環境」と自分のこれまでの「油圧駆動と制御技術」と「水」の融合技術,即ち機械を水だけで扱うことが出来ないかと,いつしか考えるようになっていた.「工場から油がなくなる」.他の人には理解しにくい非常識で,一面恥ずかしくもあったが,真面目に考えるようになっていた.世の中にはこの分野においては,既に「高含水」なる流体駆動技術が業界・学会で長年検討され,実用化されていた.しかし,いつしかその議論も少し下火になりつつあった.経験者からは「高含水」(凡そ98%が水で他は防錆,防腐,潤滑の為の添加物を含む)でも困難を極め,信頼性も性能も油圧に劣り,100%の水は考えられない,が大方の見方であった.ある日,新幹線の車中で後部座席の見知らぬ人の会話が自分の耳に入り込んだ.軸受けの流体を油から水にしたら更に回転数を上げられる.水は機械にとって良い特性を持っている.工場も汚れないし.一方,社内では回転機械の軸受けに自己液潤滑の機械が良いと.ガス回転機はガスを,油回転機は油を,水回転機は水を,電気回転機は磁石を,の議論が出されていた.

この様な時期に,更なる後押しがあった.研究所にはある著名な大学から先生が研究所の責任者として着任されていた.筆者は,いつとなく先生とお話する機会が多くなっていた.筆者にとって先生の最初の関係は油圧技術で論文をまとめるに当たり大変なご指導とご鞭撻を戴いたことに始まる.留学できたのも先生ともう一人からの先生のご支援を戴いたことによる.毎日,先生と昼食後の雑談が定例のようになっていた.責任有るお立場であったから,いろいろな部門の責任者が業務の承認を受けるのに訪れるが,先生の前にはいつも筆者が座っていた.周囲の人達から良くいわれた.「先生は宮川の為に来られたようなものだ」と.若気の至りでそんなこともおかまいなく先生との研究談義であった.言葉は穏やかであるが内容は非常に厳しいものがあった.次第にそれがわかってきた.恐ろしくもあったが内容は筆者を強烈に鼓舞した.先生曰く,「研究所の仕事は独創性を持たなくてはならない.今日,明日の仕事は製品部に任せれば良いし,我々には事業部とは別の能力と人脈を持つ.これを生かした成果を出さなくてはならない.」この様な先生のご発言の元,筆者のこれまでの調査の方向性から三つのテーマを報告した.その中に水圧技術が含まれている.テーマ選定に当たって先生がいわれた言葉を今でも忘れない.社内の78割の賛成があるテーマは独創性に欠ける.つまり,凡そ7割以上が反対であってこそ挑戦する意味がある.そのようなテーマを選んでこそ新規性がある.テーマの内容はE(エネルギー),M(材料),I(情報)をバランス良く包含していること.これからの機械およびそのシステムはこのような特性を持たなくては行けない.先生に提案した三つのテーマを以上の様な視点から見直した.事業部に2年間在籍し,「機械と駆動」の視点から従来技術を見直し,新しいテーマについては大学と共同研究をしたりして,先生のいわれた側面から調査が続いた.その結果が「水圧技術」であった.しかし,先生は更に付け加えられた.忍耐と努力はもちろんであるが,失敗したら人生がふいになるし,サラリーマンとしての将来性も失われる.それに耐えられるか.しかし,新しい開発テーマは良いこともある.文献調査など人の成果がないから手間が省ける.テーマ探しは,まず人の後追いから始まるが,これに対する時間とパワーがばかにならない.自分がやった物が文献になり人様がそれを読んでくれる.最後に付け加えられた.新規性のある機械系の技術が世に出るまでは20年は掛かる.君が成果を出すころには僕は居ない.ものすごいことをいわれる先生だとじっと考えた.

 水圧技術でEMIを含む物,技術それが何であるか.その根拠をどこに求めるか,これを明確に予測しなければ後になってその後悔は大きくなる.しかし,新技術とはいかなるものかを考えると,その解釈はものすごい広がりを見せ,詳しくはこの種の書物に任せるとして,自分なりの解釈をすることにした.今の市場の延長線で市場の予測をするのは今ある技術の改良,改善,技術の組み合わせでよい.技術から予測される市場とは何か,これまた必ずしも市場が受け入れるとは限らない.「世の中の価値観に変化が観られる時」がきっかけとなる.これは歴史の教えるところである.イギリス産業革命,現在のIT革命もそれであろう.新技術が世の中に新しい革新を起こすか,市場の要求から新技術が生まれるか.しかし,これらが具体化するときには必ずといってよいほど,その前に価値観の変化の予兆がある.これを感じ取る事が重要と考えた.これは「感性」によるものと筆者は考えている.要は技術も市場も潜在化しているがあるきっかけで具体化する.つまり社会的価値観の変化を捉えること,新技術のコンセプトの具現化,社会的システムに組み込みながら市場を予測する.これらを同時に推進しなくてはならない.つまり,スタート時点では何も見えない真っ暗闇の中に突き進んで行くことと同じである.

 この様な背景から,水圧技術の中に踏み込んでいった.水圧機器の全体を見渡した.すべての機器を開発していては市場の導入に遅れを招く.機器には油圧技術同様,ポンプ,モータ,シリンダ,制御弁ありと多彩である.EMIを含むことが前提であることから,筆者は水圧サーボ弁を選択した.水圧技術もこれまでの電動,油圧のような情報技術と接続し,「ハイレベルの駆動と制御」が可能である

ことから開発機器としてサーボ弁を選んだ.こうして水圧技術の第一歩を踏み出すことになった.

以上が「新・水圧技術への道のり」であり,その入り口について記述した.この後,本記述を1章とすれば,2章:機器品揃えのための欧米行脚数十回の海外調査,3章:門前払いを喰らって知った「共感する」営業,4章:顧客が教えてくれた製品開発,5章:始めて動いたモニター機,6章:エンドユーザの生産ラインで動いた水圧駆動,7章:社会システムとの併走へと展開していくことになる.これらについては又の機会に譲る.この度,日本フルードパワーシステム学会から「水圧技術に関する技術功労賞」を頂いた.本技術は市場に導入され始めたところであり,この様な賞を頂くのはまだ,時期尚早と思われるが,ここに感謝の意を表する.

 最後に,ここまでのADS開発は「人との出会い」がすべてを支えてくれた.心よりお礼申し上げたい.

著者紹介 

みやがわ しんぺい

宮川 新平 君

19704月荏原製作所入社.20043月退職,200410月(株)タカコを経て20073KYB(株),に移籍,現在に至る.1979年まで油圧技術に従事.1987年から現在まで水圧技術開発,製品化,市場導入など一連の業務に従事.1984/7-1986/1 2004/4-9までドイツ国アーヘン工科大学に滞在工学博士.