随 想

 

技術功労賞を受賞して*

 

西股 健一**

 

* 2022610日原稿受付

** SMC株式会社300-2493 茨城県つくばみらい市絹の台4-2-2

 


1.はじめに

この度,日本フルードパワーシステム学会より技術功労賞をいただくことになり,大変光栄に思っております.当学会,推薦していただいた方々,多くの関係者の皆様にこころよりを感謝申し上げます.

学術的な功績はおおよそありませんが,基盤強化委員会,研究委員会,50周年記念事業などの委員,さらに理事を務めさせていただき,活動面で多少なりとも学会に貢献できたかと思います.本学会は,諸先生,企業の方々との交流により,学術技術面だけでなく幅広くさまざまな知見を得ることができる非常に有意義な場であり,今後の継続的な発展に寄与できればと思っております.

2.フルードパワーとの出会い

大学4年時に研究室に配属され,初めて目に入ったのがフルイディクスの実験装置だった.同時期には研究室にオフィスコンピュータが入り,世間ではAppleUが席巻,メインフレームにパンチカードの時代が変わりつつあった.その中でフルイディクスは悠長な制御方法だなと思った覚えがある.まもなく研究テーマとしての終わりをむかえ,担当院生の卒業と共に実験装置は姿を消した.

産業界ではオイルショック後の構造の変化,輸出の増加など,生産量の増大で設備自動化の波が押し寄せ,空気圧機器が注目され始めた時期でもある.研究室ではフルイディクスに変わり,空気圧が研究対象となり,シリンダの動特性が卒論のテーマとなった.3方弁と絞り弁でシリンダの速度を制御し調査した簡単なものだが,これが空気圧との出会となった.

当業界を調べたところ急激に成長していることがわかった.当時,就職先の第1候補は成長産業の電気電子機器やソフト業界,空気圧はまだ知られていなかったが,担当教授の後押しもあり縁があって焼結金属工業(SMC)に就職した.その後の変遷を見ると結果的に正解だったようで,研究室での出会いが人生を決める事となった. 

3.シリンダの設計開発

入社後は新人研修を経てシリンダの設計部門に配属された.空気圧機器の技術史は創立50周年記念特別セミナーで詳しく紹介されており不要と思うため,自分が関わる部分を紹介したい.

最初の業務はシリンダのアルミ化だった.それまでは油圧シリンダのシール材を空気圧用に換えた鋼鉄製の代物だったが,強度の見直し,軽量化やコスト削減の観点からアルミ素材が採用され,空気圧シリンダとしての歩みが始まった.

この時期,アルミ業界は1985年のプラザ合意による急激な円高でアルミ精錬事業は終焉,素材を輸入し圧延等の2次加工への変換時期,また技術的にはアルミ缶,アルミホイールの登場,鉄道車両や航空機胴体のアルミ化が本格化した時期で産業界の流れであった時期と重なる.

アルミの恩恵としては,磁力の利用が可能となり,シリンダピストンに磁石を装着してチューブに取付けたリードスイッチにて位置検出が可能となったことで大きな進化であった.検出に関しては,シリンダ表面の磁力安定が課題で,マグネット材料の検討,シリンダサイズ毎の磁力設定,金具などの鉄鋼部品の影響,周辺環境との干渉など,さまざまな実験を重ね最適値の設定を行った.しかし,ユーザーの使用方法や環境はさまざまで当初は作動が安定せず,現場に赴き調査と対策,現在の安定した製品へと繋がった.

その後のシリンダは,ユーザーのさまざまな要求に応えることで進化した.まず新しい要求に特注品で製品を供給し,それが新しい流れとなり標準品として発展していくパターン.設備のコンパクト化要求から生まれたのが薄型シリンダ.1980年代はTVなどの電機機器の輸出が伸び,生産性向上がメーカーの命題となった.設備の進化に合わせ,空気圧機器にさまざまな要求が出され,それに応えることで製品シリーズが拡大,市場が伸長していった時期でもある.ガイドとシリンダを組合せてコンパクト化したガイド付きシリンダは,メーカーにとり設備設計の手間が省け,空気圧メーカーは新しい需要を取り込むことができWinWinの製品だったと云える.また,ロッドレスシリンダは設備の長手寸法短縮を可能とした.

1990年代は,さらにユーザーのアプリケーションに特化した製品の開発依頼があり,自動車設備向けのストッパシリンダ,半導体設備向けの汚染防止クリーンシリーズ,工作機械向けにクッション性能をさせた製品,耐クーラント仕様,食品機械向けの洗浄対応製品,耐腐食・耐水性排水性を向上させた製品とさまざまなシリーズが誕生した.現在は,SDGsに応える省資源,省エネルギー対応製品の開発へと移っている.

入社以来40年強,シリンダの形状や機能は新しいユーザー要求に応えてさまざまな変化・発展を遂げてきたが,基本は空気圧でピストンを押して動くだけと何も変わっていない.その単純さが扱いやすさであり,電動シリンダの登場後もいまだに多く使用される要因であると思う.現在,大学の力を借り,空気圧流路の最適化シミュレーション研究に関わっているが,減圧弁,バルブ,スピードコントロールバルブを含むシステムとして最適化ができれば,さらに省エネルギーにつながると期待している.

4.海外赴任

さて,視点を変え海外赴任の経験からこれまでを振り返ってみたい.世界情勢や日本産業界の波の中で,米国,中国,欧州への派遣を経験した.

入社した1979年は第一次オイルショック後の低成長時代,第二次オイルショックの真っ只中.しかし,輸出産業は好調で,特に米国では日本車のシェアが20%に近づき,デトロイトでの日本車を破壊するデモンストレーションがTVで放映された事を覚えている.米国の状況を配慮し,日本メーカーは輸出台数の自主規制を実施,現地生産の流れとなり,1980年代前半はホンダがオハイオ州,日産がテネシー州,トヨタがカリフォルニア州で生産を開始した.設備には日本製品が使用され,各社は米国に進出することとなった.当社も同様に技術者を派遣することとなり,若手3人が選ばれた.初めての技術者派遣で,身体が丈夫で精神的にめげそうにないことが基準だったと思う.かくして,3人の珍道中が始まったわけだが,デトロイトに到着し驚いたのは,高速道路の広さと車の大きさで,日本との国力の差は明確,豊かな国と実感した.

まず大学付設の語学学校で研修,大学の寮で生活が始まった.食堂は食べ放題,自販機のアイスがリッチでおいしく,洗濯機が全自動で驚いた.学校は留学準備の学生がほとんどで,中南米を中心に世界からのエリートとお金持ちの子女で溢れていた.日本からは金融を中心に企業や政府機関からの選りすぐりで,法科大学院への留学生がほとんどだった.皆,米国人を差し置いてTOPに近い成績で卒業していくとのこと.今後の日本を背負って立つ方々がいることに安心した.

さて,語学研修の間には製品対応の仕事が入り始め,つかの間の学生生活を楽しんだ後,インディアナ州の当社現地法人にて製品サポート業務に入った.現地ではまだ日本人がめずらしく,ショッピングセンターでは子供たちの奇異の目にさらされ,中国人と呼ばれた.

日系自動車メーカーの工場にて製品の修理対応を一週間近く行った際は,守衛さんと仲良くなり顔パスで通過,現地の中華料理店では初めての日本人と感激され,米国人向けではない本場の中国料理をふるまわれ,値段は張ったが大変おいしく感激した.同時に現地に合わせて商売するしたたかさを感じた.後で聞いた話だが,中国人は世界に散らばり中華街を形成しており,世界中どこに行ってもそこに行けば生活して行けるとの事.私たちと世界観が異なることを感じた.仕事ではインチ・ポンドの単位系に戸惑い,現地に適応した製品作りが重要であることを学んだ.

つぎは中国.プラザ合意後に急激な円高に見舞われた日本へグローバル化の波が押し寄せた.中国では1992年のケ小平「南巡講話」により改革・開放路線が加速し,外資系企業の進出が加速した.当社では1994年に中国工場を建設,生産が開始された.まだ,Made in Chinaにユーザーの抵抗があった時代で,品質維持は絶対だった.しかし,当初生産が安定せず製品担当として中国入りした.現在の超近代的な中国の空港とは異なり,入国では不愛想な軍服の審査官にパスポートを投げ返され,荷物のターンテーブルはディーゼルエンジン臭く,どうなることかと思った覚えがある.

日本からの派遣者は高層アパートのフロアを借り切った寮に入り共同生活,平日は朝から晩まで工場で働きハードな日々を送った.仕事は大変だったが,皆真剣で協力的,食事は問題なく(ダメな人もいたが),充実した日々を送ることができた.

休日は名所旧跡を巡った.今は観光客で大混雑だが,当時はゆったりで故宮の太和殿では玉座の近くまで行けた覚えがある.外国人は入口が異なり別料金.なぜか同僚が中国人と思われ,格安料金で入場できた.土産店で尋ねたところ,南方少数民族の顔との事だった.八達嶺長城は,2008年北京オリンピック時に整備され,今は高速道路を使い約1時間で行けるが,当時はひなびた観光地で延々山道をバスに揺られ,途中に柿や栗を売る露店があるなど風情があった.

長城は空いており端まで歩いたところ,修復された先は崩れた長城が山並みに連なり,これが本当の姿と大変感動した.今の長城は常に正月のアメ横並みの混雑でとてもいけないだろう.

今は名所への入場はスマホで事前予約し,入口でスマホをかざして入場.多くの高速道路や新幹線が整備され,現地従業員の給与は急上昇,この20年の急激な発展には驚かされる.

そして欧州.1989年にベルリンの壁崩壊,2002年には欧州11か国にてユーロ貨幣の流通開始,2004年東欧10か国のEU加盟と欧州市場が拡大した.同時に,EU域内での製品の安全性や品質の基準統一のため,EU指令にて対象製品は要件を満たすことが必要となった.開発者には,EU市場に投入する製品にCEマーキングと云う設計要件が追加された.

また,海外生産の観点では,1990年代半ばまでの円高進行が落ち着き現地市場の獲得にシフト,日本企業の欧州生産移転が始まった.当社は欧州での強化を目指し,ユーザー対応,欧州向製品の開発,CEマーキング対応などを目的として欧州技術センターを設立することとなり,2000年に現地法人のあるミルトンキーンズに向かった.ロンドンから北西へ約80kmにあるニュータウンで,古い街並みにハイストリートのある典型的な英国の街とは異なり,幅広の幹線道路が碁盤目に走り,住宅街と歩道を分離した計画都市で,交差点はランドアバウトで信号がない.最近では,自走ロボットが新型コロナのロックダウン時に食料品を宅配して注目された.歩道が車道と分離され住宅街をつないでいるため可能で,街づくりの参考になる.

そこに欧州各国から派遣された技術者と共に欧州技術センターを開設した.困ったのが言葉で英国は日本と同様に地域で方言があり,それに加え各国から来た技術者の英語はドイツ語風,スペイン語風などそれぞれのお国訛りがあり,慣れるまで時間を要した.働き方も北欧とドイツは定時帰宅,南欧は残業をいとわないなどの違いがあった.皆,自国の文化に誇りを持っており,特に食べ物は譲れないところ.ドイツ人はビールを持ち込み,イタリア人は自らパスタを作り始めた.皆,自慢の自国名産ワインを飲ませてくれた.仕事の後は,パブで生ぬるいビールとチップスで,仕事からお国自慢までいろいろな話しで楽しい時を過ごしたのは良い思い出である.驚いたのはネットワーク作りで,数年で帰国や転職するものがいたが,その後もしっかり繋がっており,誰が結婚した,どこで働いているなどの情報をしっかり共有していた.

大事件と云えば2001年の9.11同時多発テロ.昼過ぎにTVニュースが流れ大騒ぎとなった.数日後にイタリアへ出張したが,空港は機関銃を持った兵士が警戒し,滑走路の脇には地対空ミサイルが配備され物々しい雰囲気で,海外にいることを実感した.欧州各国への出張が多かったため2002年のユーロへの変更は恩恵に授かった.それまでは各国通貨を持ち歩いていた.2004年の東欧EU加盟も印象的で,直前のポーランド出張では,入国審査官が軍服で無愛想にパスポートをチェックし緊張したが,数か月後にはフリーパスになった.

日本の製造業は,世界情勢の変化に対応して海外進出や生産移転を行い,それに伴い技術者が海外へ赴任することとなった.私もその1人だが,世界を知ることができ有意義だった.中には現地の環境に対応できず早々に帰国する者もいたが,私は楽観主義と丈夫な胃腸が味方してくれたようだ.その後のBRICs時は若手に移り,ブラジル,インド,ロシア訪問を逃したのは残念である.

最近の若い技術者には,快適な日本に満足し,海外赴任に興味を持たない者も多いようだが,グローバルな活躍を期待するとともに,各地の文化を楽しんでほしいと思う.

5.学会活動について

最後に学会活動を振り返りたい.当学会との関りは,2010年に前任者から基盤強化委員を引き継ぎ約11年間,小山先生,川嶋先生,吉満先生の各委員長下で活動.また2016年に理事の大役を仰せつかり,小山理事長,眞田理事長の下で36年間務めた.それまでは,研究とは縁のないシリンダ設計やユーザー対応などアプリケーション中心で,欧州のISO 規格分科会への参加が唯一学会との接点だった.

基盤強化委員会は,会員数をどうやって増やすかが主な議題で,会員になることで得られるメリットは何か,どのようなサービスが会員にとり魅力的か,などを話し合った.

永年会員やフェロー制度の設立,バーチャルミュージアム,よろず相談窓口,出前講義による啓蒙活動,フルードパワー道場の内容充実,IFPEXカレッジコーナーによるアウトプット,研究委員会の企業参加による活性化など,学会の知見・知識のアウトプットと産学交流により貢献し,学会の魅力を高める試みが行われた.それぞれは魅力的な企画だが,アウトプットの手段が限られ,波及が既存の範囲にとどまり,期待した程の効果は得られていないと思われる.産業界では幅広く使用されているフルードパワーだが,認知度が今一歩である.近年はDX連携,リハビリなどの医療分野,介護分野への応用など,注目度の高い分野に広がっており,フルードパワーの特徴や利点を再認識してもらう良い機会と考える.

講演会,セミナー,国際シンポジウムなどは毎回参加させていただき,最新の研究や応用技術に触れることができた.理論的な研究は難しく理解できなかったが,質疑のやり取りから内容の深さに感心した.また,講演会やセミナーが地方で行われる際は,現地の文化に触れる企画が組まれ毎回大変興味深かった.担当される先生方は大変苦労されたと思うが,毎回楽しみにしている.ここ数年は新型コロナ対策でWEB開催となり,自席参加で手軽になった反面,先生や企業の方々との交流の機会が失われ,講演会の意義が半減し残念である.今後に期待したい.

6.終わりに

私のこれまでの活動を取りとめもなく紹介させていただいたが,新しい技術の登場や世界情勢変化などの社会の波の中でさまざまな経験を積むことができたと思う.さらに当学会と関わることができ,活動の幅が広がった.学会の魅力は,産学交流の輪の広がり,情報交換,知識の深化と思うが,コロナ対策で重要な部分が失われた.WEB開催という新しい選択肢が加わったが,やはり対面の開催が主体であるべきと思う.最後にフルードパワーシステム学会の更なる発展を願って,本稿の結びとしたい.

 

参考文献

1)         吉川洋,宮川修子:産業構造の変化と戦後日本の経済成長,RIETI Discussion Paper Series09-J-024p.5-10

2)         内閣府ホームページ,経済財政政策白書,日本経済2012-2013,第3章,第1 海外生産移転の進展,p.1-2

3)         外務省ホームページ,アーカイブ(日EU経済関連),EUにおける通貨統合,p.1-2

4)         関口清之,改革・開放後に驚異の急成長 中国経済の長期展望と日中経済の未来,ダイヤモンドオンライン(2012/9/27)

5)         本間伸一,空気圧シリンダの技術史,JFPS学会創立50周年記念特別セミナー(2022)

 

著者紹介

にしまたけんいち

西股健一 君

1979年関西大学工学部機械工学科卒業.同年焼結金属工業株式会社(現在のSMC株式会社)入社.シリンダの設計開発,米国,中国の現地法人出向,欧州技術センター設立に従事.現在,技術統括部.

日本フルードパワーシステム学会員・フェロー

E-mail: nishimata.kenichi(at)smcjpn.co.jp